天理教
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西川 武志(にしかわ・たけし) Dブロック長

2年3年ほど前ですけれども、ある男性の方が教会へ訪ねて来られました。その男性の方というのは、かつての会社の上司、私の兄貴分みたいな存在で、非常にお世話になった方です。

私の携帯の番号が変わっていたのか何かで、家まで訪ねて来られたんです。その時、大切な別のお客さんがあったので出られませんでしたので、妻がその方にその旨を伝えると、電話番号だけ預かって、「電話を下さい。」と言って帰られました。

その日のお客さんが帰られた後、電話をさせてもらったら、「ちょっと相談したいことがあるんや。」って言われて、「今晩、ご飯でも行けへんか。」と言われたんで、「まあ、いいですよ。」と2人で食事に行きました。

仕事の話だったんですけれども、私は10年以上、その仕事からは遠ざかっていましたので、全然仕事の話の相談にも答えることもできず、結局昔話をして終わりました。そしたらその次の日に、もう1回その人から電話が掛かってきて、「西川君ありがとう。ありがとう。」としきりに言うてくれるんです。「どうしたんですか?」って聞いたら、「いや実はな、自分のことを嫁さんと喋ってたんや。」奥さんにもかつていろいろお世話になったんで、よくよく存じ上げてる方なんですけども、「やっとようやく天理教を、親父さんの仕事を継いでやってるみたいやわ。結婚もして、子供もできて。」ということをしゃべってたら、それを聞いてた、その人の高校生の次女が、涙ながらにその両親に訴えかけてきたということでした。

それは何かというと、ある宗教団体からものすごい勧誘をされてたっていう話でした。半年ほど前からすごい勧誘を受けてたようなんですけれども、誰にも言うに言えん、困って困って、しばらく思い詰めてた。そして私のことを天理教という話が出た時に、その天理教という言葉に、今やと思って、おそらく娘さんはご両親に相談されたんだと思います。「ボロボロ泣きながら相談してきて、『分かった、分かった。じゃあ、もうこっちであと何とかするから』ということで。だから、自分と昨日会えてへんかったら、娘はどこまで思い詰めてたかわからん。ありがとう。」「ああそうですか、よかったですね。」で、終わったんです。

そこから半年ぐらいした時に、金京の月次祭の前日に、明日月次祭やなぁと思って、何を皆さんに講話でお話しして、お伝えさせてもらおうかなと思って、ネタがないなぁと思いながら、逸話篇をばーっと読ませて頂いたんです。その時にふっとその当時の、今、皆さんにお話しした時の様子を頭に思い出しまして、「ちょっと待てよ。私がその人に対して、いやいや教会長やっていたり、子供がいやいや育てたりしてたら、きっとその方は奥さんと私の話も出てへんかったかもしれん。出てへんかったらその娘さんはおそらく、両親に相談することなく悩んだままの状態になってる。」その時に思ったのが、教祖ご在世当時、先人の先生方が、「にをいがけするにもおたすけするにも、神様の話、全然分かりません。どうしたらいいですか。」とその時に教祖は、「自分の助かった話をしたらええんや」とこう仰せられたということが、パッと頭に入ってきました。

それを今、その当時の自分に無理矢理置き換えてみたら、当時仕事してる時は親の仕事は継がない、天理教はしない、と私は言い切って仕事をしていたんですけれども、状況が変わって、結婚もできて、子供もたくさんいて、と今の状況を、おそらく自分なりに幸せに喜んでお話ができたのかなと思います。

それを聞いて、心地よく思われて、奥さんに私のことを伝えて頂いたのかなと思うと、やっぱり自分が助かった話をしたら、その娘さんが助かるんだなということを、これは強引かもしれませんけど、そういう風に思うように言い聞かせました。そしてそう思ったら、いても立ってもいられなくなって、その方にその場で電話をして、今言うたような内容を伝え、向こうは理解されたかどうか分かりませんけれども、「一緒におぢばがりしましょう。別席行きましょう」と初席をお願いしたら、「分かった分かった。そこまで自分がそういう風に言うんやったら、分かった。2日後たまたま予定が空いてるんで、明後日やったら行けるよ。」と言って頂いたので、おぢばがえりさせてもらいました。

その朝、その方を迎えに行った時には、いきなり、「今日は自分の話を聞くけれども、僕は天理教の信者にはならへんで。天理教の信者になりそうな人やったらいっぱい紹介したる。」という、ちょっと意味の分からない先制パンチを食らいながら、2人でおぢばへ帰りました。初席で別席場に行く前にかんろだいの前に座ると、参拝をする前にその人から色々と家の事情、ご両親の事情など、今まで20年ほどの付き合いが、10年間のその前から20年のほどの付き合いがあった人なんですけれども、知らんかったようなことを、ぼそぼそボソボソしゃべり出されるんです。やっぱりおぢばって、やっぱりかんろだいって、すごいところがあるんやなと思いながら、その方の話を聞かせてもらって、結局、拝もするのを忘れてそのまま別席場へ行かせてもらいました。

別席が終わると、「あの言葉はどうやった?この言葉はどうやった?」と色々聞いて下さいました。「あの言葉はこういう意味ですよ。この言葉はこういう意味ですよ。」「やっぱりそうや思った。」という感じで帰ってきました。

よく考えてみると、その時に自分が常々から教祖のお心にお慕い申し上げてる状態であれば、その時すっと気付けるわけなんですけれども、半年経って、やっと一人の方をお連れして、「これは教祖のご縁や、娘さんがそうやって助かったっていうのも、やっぱり神さんが準備して下さったことなんやな。」ということに気付いた自分をすごく反省させて頂きました。そして、会社のかつての上司ですので、行く道中、お道の話、どんなことをお伝えしようかな、何を話そうかな、とずっと悩みながら、どうしようかなと思いながらずっと行っていたのですが、結局何も喋れず、けれども、親神様の前に行くとおのずと向こうの方から、色んなことをきれいに吐き出すように、お話し下さった。やっぱり神様すごいなということを感じさせて頂くことができました。

今年1年、教祖の逸話篇を本当に心において、自分が何を伝えるというのも大事なんでしょうけれども、また人の話を気持ちよく聞かせて頂けるような気持ちで1年通らせて頂きたいなと思います。


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