右京支部 掲示板
- 2024年03月01日 (金)
- 【右京支部】
近本 和孝(ちかもと・かずたか) 御室組長
5分間スピーチということで、昨日の晩も一生懸命考えていたのですが、まとまらなくて寝てしまいました。そうしたら、夢を見ました。右京支部総会で、司会進行総務全てをやれということで、たくさん参加しておられまして、一生懸命やっていたんですけど、しっちゃかめっちゃかになってしまって、もうどないもならない、困ったなと思っていたら、黙々と一生懸命用具を出したり入れたりしておられる先生がおられる。顔を見たら、今月の支部例会会場である、川端分教会の会長さん、菊田先生でした。一生懸命やっておられて申し訳ないなと思っていたら、それで目が覚めまして、これは支部の話をせなあかんのやなということで、今日は支部の話をさせて頂きます。
私、25歳の時に仕事を辞めまして、この道一条になりました。上級の青年とか詰所で事務の方をやらせてもらって、30歳の時に父である教会長の身上が進んできまして、ちょうど正月前に教会に戻ってきて、それから、支部の青年会でお世話になりました。ちょうど30歳の時でしたが、たまたまその時の青年会の委員長が都合が悪くて、辞退されて空席になっていたので、近本お前やれ、と何もわからないんですけれども、とにかく勇んでおりましたので、はい、と言うて受けさせてもらいました。その時のメンバーが、金京の前会長さん西川先生とか吉田先生とか山本先生とか小村先生とか、その辺がおられました。それで、人はおられたんですけども、なかなかもうちょっというところがないんで、とにかく一生懸命青年会員を増やそう、ということでいろいろ考えて、あそこの教会に若さんがおったな、ここにちょっと熱心な信者さんがおったな、と教会を毎月回りました。教会に迷惑をかけたらいかんからということで、ウイスキーの一番安物の瓶とおつまみと買って行って、教会ではコップと冬やったらお湯を出して頂いて、それであとはわーわーやっておりました。それはそれで結構楽しんでおったんですけども、それなりに活動もしており、さすが右京支部やと言われるようなこともさせてもらったんですが、中には失敗もありました。
ある時におたすけ勉強会っていうのが、舞鶴の山陰大教会でありまして、魚釣りの好きな人がたくさんおられましたので、せっかく舞鶴まで行くんやったら魚釣りできるで、ということになりました。ワゴン車2台で、釣り道具とか寝袋とか全部積んで前の日から行きまして、昼間散々魚釣りをしてましたがあまり釣れなくて、そして一晩車の中で寝て、翌朝、山陰大教会に行くのにはまだちょっと時間があったので、ちょっと場所を変えて釣りしようかとなったら、めちゃめちゃ釣れ出しまして、そろそろ時間やぞ、そやな、と言ってても誰も竿をしまわないです。結局、時間が過ぎてしまいまして、最後このまま帰ろうかなと思ったら、吉田先生から、自分とこの部内教会が舞鶴にあるから、そこに渡してくれへんか、というて預かり物がありましたので、渡さなあかんから、小村先生が山陰大教会へ電話したら、そこの会長さんがどないしたんやろうと思って待っとったんや、ってことでその書類を渡して帰ってきたようなことがありました。そういう失敗もありましたけど、それがちょうど30歳の時ですから、今はこの春で75歳 になるんですが、大方45年、支部でお世話になりました。
縦は、おたすけを始め、色々なを理を頂戴するところ。横は、教理を研鑽するところ。教友同士がわいわい言うて遊びの中にもいろんな教理を勉強していって、また心配事もあれば相談をしていく。そういう中で来ました。
これは20年ぐらい前、教祖120年祭のちょうど今頃の時分なんですけれど、年祭前のものすごく大事なことがあって、幹事が寄ることがあって、そこへ行ったら、肝心な大事な人がポツポツ来られてないことがありました。するとある会長さんが、「何事や、各教会の用事も大事やけども、こんなことで欠席するとは何事や」と言うて怒られ、その後、当時の支部長が、「そんなんやったら支部長やめるぞ」と言えば、「そんなんやったらやめてみろ」、「ごちゃごちゃ言うんやったらあんたがやりいな」、「なにを!」と言うて怒られ、「わしはもう支部やめる」と言うて、その場で帰られて、それきり支部に出て来られなくなりました。
私はその先生とは、個人的にもちょこちょこ顔見知りだったので、顔を合わせたら、「近本君どうや、元気にしてるか」と言うて下さってたのですが、実はあの時に、その先生が、がんの末期で助からんらしいということを耳にしまして、その大教会の定詰の先生に、「こういうことを噂で聞いたんですけど、どうなんですか」と尋ねると、「実は支部の人には言わんといてくれと、釘刺されてるんやけど、実はもうがんの末期なんや。もう後3ヶ月の命なんや」と言われました。それで、支部とは疎遠になっていたけれども、あの先生の支部での活躍を見たら放っておけんで、と早速伊東先生に声を掛け、「行こう」という話になりました。
怒られるかもしれないけれど、恐る恐る病院に行きましたら、「よう来てくれたな」と言うてもらい色々話をしました。仕事をしている時に、職場の検診で肝臓にがんが見つかり、「すぐに治療をして下さい」と言われたけれども、仕事も忙しいし、色んなことあるしまあええやろ、と放っておいたら、体の調子が悪くなって、病院に診てもらったら、「もう末期です。全身に転移していて手の施しようがない。あと3ヶ月の命です」と言われ、その病院に入院された。そういう話をして下さって、伊東先生が、「これもね。お互い助け合いでね。互い助け合いやと聞くからね」と言うたら、「何を言ってるんですか。この教祖の年祭のある時に、互い助け合いってそんな悠長なこと言ってどうするんですか。それぞれが一生懸命やらなあかんのちゃうんですか」と言うて逆に怒られまして、伊東先生が言ったんですけど、その時に、「家族のものはね。お父さんちょっとでも長生きしてなと言うんやけど、その時にわしは思ったんや。何言うとるやって。こんな体で年祭が来て、どんな教祖の御用をするんや。出来ひんやろ。それやったら、もう命がないんやったら、神様にさっさと引き取ってもらって、教祖150年祭に間に合うように、出直したいんや。家族にもそう言うたんや」と言われました。私はその時にびっくりしました。元気な時に、そういう話をするんやったらいいけれども、本当に自分がもう3ヶ月と言われてからもう1か月が経っていましたから、そんな中でようそんなことが言えるなと思いました。そうしたら、後で「お父さんそうやないんや。ちょっとでも長生きしてもらうのは、いらんか知らんけども、私ら家族としては、やっぱりお父さん最後やから、最後は家族で共に暮らして最後は看取りたいんや。」と息子が泣いて私の妻に言いました。その先生は、「そやな、分かった」と言うて、最後は自分が車を運転してご本部の神殿に行って、もう歩くのがフラフラでしたが、車椅子に乗せてもらってぐるっと回って帰って来られました。それが出直す1ヶ月前です。
先生から、そうしたんやという話を聞いて帰って来て、支部の幹事の先生方に、こうやって行ってきたという話をしましたら、わしも行ってくる、わしも行ってくると言って、何人かの先生が病院に見舞いに行かれましたが、きっちりと3ヶ月後に出直されました。4月にその話を聞いて、7月の暑い時に出直されましたけど、上級の教会でお葬式をあげてもらわれて、私を始め幹事で行ける者はお葬式に行かせてもらいました。
そういうことがありまして、年祭が近づいてくると、私はやっぱりそれを思い出します。人によってこの年祭の受け止め方は全然違いますけれども、そうやってある意味、自分の命を、年祭っていうか、教祖に懸けた教会長さん。しかも私と同じような人がいるということを誇りに思うと同時に、やっぱり本当に自分がどれだけのことを出来るか分からないけれども、一生懸命自分なりにやらせてもらわないといけないな、そういうことを思う次第でございます。ありがとうございました。