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中西 榮一(なかにし・えいいち) 太秦組長

この年齢になるまで、色々失敗ばかり繰り返してまいりました。その中で一番古い出来事を少し話してみたいと思います。

それは50年前のことです。50年前に私の長男が低出生体重児として生まれました。体重が平均の半分以下でした。母親はすぐに退院できましたが、子供は保育器の中でしばらく育ててもらいました。今のコロナと同じように中に入ることはできず、廊下のガラスの外からしか見ることができませんでした。長男は見るからに小さく、胸のあたりがピクピクとして、色も紫色がかったものでした。今でもまぶたの中に浮かんでおります。

医者が、「このケースの中は酸素を濃くしてある」と言いました。私も当然だと思いました。続いて、濃い酸素は目の網膜を侵すということを言われました。つまり目が見えなくなるということです。さらに医者は、そうなっても文句を言わないという一筆を書けと言いました。厳しい言葉でした。50年前のことです。

すでに文章は印刷されておりました。私は名前を書き、ハンコを押しました。その時から3つの大きい苦しみが始まりました。果たして大きく育つのだろうか、目が見えないままなのだろうか、目が見えなくても文句を言えないのだ、という3つの心配事が続きました。これは今はわかりますが、このことを通じて私を神様が導いてくれているんだと、あの時はわかりませんでした。

私の家内の両親が、梅満分教会の信者さんでした。そのことからお話を聞かせて頂き、本を読むようになりました。天理教のお話を聞くようになりました。90年祭の頃のことです。そのうち別席を勧められ、別席のお話を聞くことを心に決めた頃に息子は退院致しました。目の方もなんとなく見えるようでありました。

退院出来てからも寒い冬でしたので、風邪をひかしてはいけない、体重を減らしてはいけない、ミルクのこと、色々大わらわでした。また、90年祭の時に修養科へも行かせてもらいました。そうこうしているうちにおかげさまで気弱ながら少しずつ大きくなっていけたと思っております。

形が反対、つまり本部が先で梅満が後という形になってしまいましたが、梅満分教会の月次祭にも参拝するようになりました。

今では息子も50歳です。2人の子供の親になって元気にしております。

諭達第四号に、「ぢばを慕い親神様の思召に添いきる中に、必ず成程という日をお見せ頂ける。」とあります。まさにその通りだと今の私には思えます。そして、色々な身上事情も全て神様が導いて下さる、助けて下さる、育てて下さることだということも分かりました。喜んでいかなきゃいけないんだということも分かりました。


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